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物理学を志す諸君へ

物理学科の新入生に、将来の専門分野の希望を聞くと、約半数の学生が宇宙物理 をやりたいといいます。残りの半数の過半数が素粒子物理学を希望します。これ を読んでいる多くの物理志望の高校生や、物理学科の学部生の方も、将来、宇宙 物理学者や素粒子物理の研究者になりたいと思っていることでしょう。

実際、星空の神秘は古来多くの人を引き付けてきましたし、森羅万象の根本法則 を究めたいという素粒子物理学者の夢は、物理学の中心課題の一つでもあります。 かくいう私も、高校生の頃には一般向けの相対性理論や量子論の本を読み耽り、 日常の常識を覆すような物理の原理に心を奪われ、物理学を志した一人です。

しかし、相対性理論や量子力学は既に前世紀の初頭に確立した理論です。現在、 相対性理論や量子力学そのものを研究している人はもうほとんどいません。また、 宇宙物理学や素粒子物理学という分野が、現在の物理学の大部分を占めるわけで はありません。むしろ逆で、例えば、日本の物理研究者の大半が属している 日本物理学会の年次大会を見ても、 宇宙物理学や素粒子物理学に関連する分野は全体 の数分の1を占めるに過ぎません。

物理学には様々な分野があり、そこでも多くの課題が、諸君らの挑戦を待ってい るのです。

物性物理学と統計物理学

数多くある物理の研究分野のうち、特に、この研究室で主な研究対象となってい る、物性物理学と統計物理学について、諸君らの将来の研究対象を考える助けに なるように、簡単に現状をまとめて見ます。

物性物理学とは、日常的なスケール、即ちマクロな物質の性質(物性)を、物理 学の基本原理から理解することを主な目標とする物理学の分野です。基礎とする 物理法則は、力学、電磁気学、量子力学が主で、場合によっては特殊相対性理論 を使うこともあります。原子核より小さなスケールでの物理現象が、マクロな物 性を決めていることは通常はありませんので、その意味で、基本法則は分かって いるものとして、それを出発点にマクロな物性を説明します。

基本法則が分かっていれば、それに従う物質の性質は、その単なる応用にしか過 ぎず、原理的には何も新しいことはないと思うかもしれません。しかし、一つ一 つの粒子の従っている法則が理解できたとしても、それが数多く集まった集合体 の振る舞いは、個々の粒子の振る舞いから全く予想もつかないことが多くありま す。

諸君らが良く知っている現象を例にとって説明しましょう。例えば、水は常温で は液体ですが、摂氏0度で突然固体(氷)になります。しかし、個々の水分子の 従っている法則は0度以上でも0度以下でも変化があるわけではなく、全く同じ です。ところが温度を下げてゆくと摂氏0度で突然液体から固体へ変化してしま うのです。

このような物質の突然の変化を「相転移」といいます。相転 移現象は、物質を構成している分子が多数集まってたがいに相互作用している結 果おこる現象であることが分かっています。このためこのような現象は 「協同現象」 と呼ばれることもあります。

相転移現象は、温度など外部環境を徐々に変えていった時に起こる物質の突然の 変化で、非常に劇的なものです。その中でも最も不思議な現象の一つが、超伝導 相転移でしょう。多くの金属などの物質を絶対ゼロ度付近まで冷却すると、ある 温度で突然電気抵抗がゼロになる超伝導現象は、1911年にオランダのカマリンオ ンネスによって発見されましたが、そのメカニズムは1957年になるまで謎でした。 超伝導を説明したBCS理論は、基本法則としては電磁気学と量子力学しか用いて いませんが、超伝導が理解されるのには、量子力学が確立してから30年以上必要 でした。

この例からも、基本法則の理解と、 多数の原子からなるマクロな物質の振る舞いの理解とは、 全く別であることが良く分かります。

マクロな物質にはアボガドロ数ほどの分子や原子が含まれています。そのような 多数の分子の運動をひとつひとつ追跡することは不可能ですし、また、仮にそ のようなことが出来たとしてもそれから物質全体の振る舞いを理解することは不 可能です。その為、マクロな物質の性質を理論的に取り扱う為には分子・原子の 運動を統計的に扱う必要があります。そのような物理学の分野を「統計物理学」 といいます。上で触れた相転移現象も統計力学によって初めて理解されました。

統計物理学の世界

統計物理学の起源は、 19世紀に気体の法則を理解する為に発展した気体分子運動論にあります。 気体の性質を古典力学に従う粒子の集まりとして理解しようとしたものです。 一つ一つの分子は互いに衝突し複雑の軌跡をたどるけれども、 気体の中の分子全体の速度の分布は統計的に安定な いわゆるマックスウェル分布に従うことが示されました。 粒子の集まりとして気体の性質がうまく理解できることは、 物質が原子から出来ているという、 いわゆる「原子論」の有力な証拠とされました。

更に、物理現象の非可逆性に関するボルツマンのH定理、 エントロピーの微視的な表式などが見出され、 外部環境を一定に保った時に物質が最終的に到達する状態、 すなわち平衡状態の統計力学が確立しました。

多数の粒子からなる系の振る舞いを記述する統計力学は、最初、構成要素の分子 が古典力学に従うとして定式化されましたが、その枠組自体はある程度、構成要 素が従う微視的な法則とは独立で、量子力学的な系であっても、基本的な考え方 は変わりません。量子力学と電磁気学に統計力学を加えることによって、巨視的 な物質の平衡状態の性質が記述され、現代のIT技術を支えている半導体の物性 や、上に述べた超伝導相転移なども理解されてきました。

さて、相転移現象には、物質の性質が突然変化するという以外に、際だった特徴 があります。即ち、強磁性相転移のような、いわゆる2次の相転移と呼ばれてい る相転移では、相転移点(転移温度)付近で、帯磁率といった、外からの刺激に 対する変化(物理では応答という)が非常に大きくなることです。つまり、相転 移を起こそうとしている物質は、外部からちょっとした刺激を加えただけで非常 に大きな変化を引き起こすのです。このような現象を「臨界現象」 と呼んでいます。

臨界現象が興味深いのは、この相転移点付近での物質の振る舞いが様々な物質に 共通な性質を持っていることが分かってきたことです。 即ち、例えば磁石になる物質としては、鉄以外にも様々な合金などがありますが、 転移点付近で磁場をかけた時の応答の様子などが物質によらず共通なのです。 このような性質を「相転移の普遍性」といいます。

このことは、伝統的な物理学的ものの見方からすると、ちょっと不思議な感じが します。即ち、

この世の物質は見かけ上の振る舞いが違っても
全て共通の物理法則に従っている
というのが、通常の物理でいう普遍性です。 具体的な物質の振る舞いは「もの」が違えば当然異なるわけです。 ところが、この「相転移の普遍性」というのは、物質が異なる、即ち
ミクロなレベルでの振る舞いが異なるのに、
臨界現象という巨視的な振舞いが普遍、即ち共通
というのです。

これは、伝統的な物理学、 あるいは素粒子物理学における物質の根本法則とは異なる意味での「普遍法則」です。

統計物理学のフロンティア

他の分野と同様に、統計物理学にも多くのフロンティアがあります。 その中で、特に我々が関心のある分野について、述べましょう。

砂山の物理学 --- 散逸系の統計物理

通常の統計力学はエネルギーの保存することが大前提になっており、それを基礎 に理論が構成されています。物理学ではエネルギーの保存則があるので、これは 当然のことです。しかし、例えば巨視的な粒子を見ると、それらが衝突した時、 非弾性衝突をして見かけ上力学的エネルギーが保存しません。もちろん、そのよ うな場合にでも、「失われたエネルギー」は、ミクロに見ると、熱エネルギーや 音や光のエネルギーになっていて、それらも含めるともちろんエネルギーは保存 しています。しかし、巨視的な粒子の運動だけに興味があり注目している場合に は、見かけ上エネルギーが保存しないように見えます。そのような粒子が多数集 まった系の、系全体としての振舞を調べようとすると、従来の統計物理学の枠組 は使えません。

そのような系の典型的な例として、「砂粒」があります。

通常の物質は、固体、液体、気体と温度や圧力に応じて3つの状態になります。 しかし、砂の集まりは、ほおっておくとすぐに止まってあたかも固体のようになっ ていますが、斜めにすると液体のように流れ始めます。また、スピーカ−のよう な振動する板の上におくと、気体のように飛び跳ねます。

これら相互の状態の遷移は時に意外な現象を引きおこします。 例えば、普段はしっかりとした大地が、地震のような振動を受けると突然、液状 化現象を引き起こし、液体のように地面割れ目から吹き出すことがあります。

このような砂の集まった系の性質はまだ十分理解されておらず、散逸系の統計物 理として活発に研究されています。

生物物理学 --- 生命を支える分子機構

物質、宇宙にならんで、古来からの謎である生命について、 その微視的なメカニズムが解明されつつあります。 顕微鏡技術などの進歩から、 生体内での分子の動きが一分子のレベルで観察できるようになりました。 しかしそのメカニズムの理解には、統計物理学の手法が不可欠です。

その一つの例として、分子モーターの研究が挙げられます。

分子モーターとは、筋肉の運動や細胞内の物質輸送を担っている分子で、 ATPと呼ばれる分子を加水分解する際に生じるエネルギーを用いて動きます。 いくつかのタンパク質が組合わさってできた、まさに分子からできたモーターです。 最新の実験技術を用いると、それがくるくるまわる様子が実際に観察でき、 化学エネルギーを力学エネルギーに効率良く変換していると考えられています。

しかし、大きな分子とはいえ数分子から構成されている分子モーターにとって、 利用している化学エネルギーは、 周りの溶媒分子から受けている熱揺らぎのエネルギーと同程度のものです。 そのような大きな揺らぎを受けながら、 分子モーターはなぜ効率良く、しかも正確に働くことができるのか、 大きな謎とされています。

伝統的な統計力学は、熱揺らぎがある意味で無視できる系を扱うことが多かった のですが、生体内の分子モーターのような系は、大きな揺らぎの中の非平衡統計 物理学の格好の研究対象です。

その他、遺伝子制御や細胞内の情報伝達、免疫機構など、 生命の物理学は統計物理学の新しいフロンティアです。

ソフトマターの物理学 --- 複雑流体の世界

従来の物性物理学は、固体とくに結晶を対象にしてきて、その性質を明らかにし てきました。しかし、近年、ソフトマターと呼ばれる、高分子、ゲル、コロイド、 膜、液晶などのような、「軟らかい」物質の研究が盛んになってきました。

これらの物質は、従来の単純な物質とは異なり、いわゆる固体・液体・気体など の相以外に、さまざまな複雑な構造をとり、物性を示します。

紙オムツや化粧品などの応用が広がったり、また、生体内の膜などに見られたり で、今後研究の広がりが期待されています。

この研究室を希望する人へ

ここまで読んでくれた方は、きっと私たちの研究室に興味を持ってくれた人だと 思います。ここでは私たちが、諸君らにどのようなことを望んでいるかを 書きます。

私たちは統計物理学を研究する理論グループですから、 統計力学およびその他の物理の基礎科目(量子力学、電磁気学、力学) を十分身につけていることが望ましいことはいうまでもありません。 しかし、実際に研究活動をする上でより大切なことは、 それらの具体的知識もさることながら、

などです。

研究をする手段としては、純粋に紙と鉛筆だけの理論はむしろ稀で、多くの場合 コンピューターを使った数値解析を行ないます。しかし、コンピューターや数値 解析法については、具体的に必要になってから本格的に勉強すれば十分で、あら かじめ熟達している必要はありません。

研究室にはいってからの研究テーマは、私たちが興味を持っていることからいく つか候補を上げ、相談しながら決めるのが普通です。しかし、学生さんの方から こういうことをしたいという希望があれば、どんどんいっていただくことを奨励 します。ただし、それがそのまま研究テーマになるかどうか、あるいは研究テー マとしてふさわしいかどうかは場合によりますので、希望をもとに、議論しなが ら決めて行くことになると思います。